ブログ
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
地震がありましたね。
私は渋谷で勤務中でした。
その日はもちろんで社が全滅でしたので帰れず、会社に泊まっていいと言われましたが、知り合いが渋谷駅で立ち往生してるというので合流しました。
会社でも商品開発の人達が炊き出ししてくれて、それを持って知り合いのとこに向いました。
ありがたいことです。
知り合いが何も食べて無かったらとか、帰り歩くなら食べ物必要と思い、バッグにサンドイッチつめて会社でペットボトルもいただいて。(ウチまで渋谷から6時間半と検索したら出たので)
ありがたいことに居酒屋で食事もできましたし、暖もとれて15分仮眠もできました。
3時に閉店した居酒屋を後にし、休憩所に行こうとなりました。
渋谷駅前では銀行などがロビーを解放してましたが、交番であおがくの敷地を避難所にしているというので、そこに向かいました。
記念講堂を解放していて、クラッカーの大きな缶と水とアルミ防寒しシートをいただけました。
座ったり寝そべったりとたくさんの人が利用していました。
私たちも各自休憩したりトイレ行ったりとしてる間も学院の方や学生が一生懸命交通情報調べたり、携帯の充電器を貸し出ししたりと活動してくださいました。
そう言えばその学院にいく途中、私のつとめる会社の経営するカフェがあるんですが、電気がついてました。朝3時に。帰れなかったんだなと思っておつかれさまと心の中で呟きつつ素通りしました。
店長は良く知ってる方なのですが、もう寝てるかと。
そしてしばらく休んでいたらやっと朝7時くらいに最寄り駅まで行く電車が動いたとの情報が入り、知り合いと駅に向いました。
知り合いは東横線、私は別の電車で。
駅に向う途中、一つファストフード店が明いてるのが見えて、お客さんが殺到してました。
頑張ってるなあ、ありがたいよね…と思いつつ歩いていたら、なんとウチのカフェも開いてました。
笑顔で働いてる店長とアルバイトが見えました。
外にはそれを見守る統括マネージャー。
無理すんなよ!頑張らなくていいよ!と思いましたが、大きなチェーン店がまだ店を開けてない早朝、お客さんがたくさん入ってるのを見て、最後には頑張れ!ありがとう…とやはり心の中でつぶやきつつ。
他の店も納品物が届かなくて、14日から営業はどうなるか。
私は9時くらいになんとか電車を乗り継いで帰りました。
駅のなかの行きつけのファストフードの店員のおばちゃんにはげまされました。
実は今住んでるとこは地震発生時から12時間断水停電してて、大変だったらしい。
おばちゃんは実家が青森だとかで、とても心配してましたが、元気に笑顔で働いてました。
ホッとできました。
家に帰るといろいろ倒れたり、落ちたり。
でも帰れた安心感は大きかったです。
会社でもテレビは見てたんですが、やっと落ち着いて自宅でテレビを見ました。
もらったサンドイッチ食べつつ。
尋常じゃないのは分かってましたが、見てると涙が止まんなくなります。
私の実家は仙台市。
女川には同級生。
気仙沼には友達のお父さん。
多賀城には友達。
宮城野区、若林区にも多数の友達。
名取にももちろん知り合いやらがたくさん。
言葉にもならない。
町が無くなるって何?
家族は?
もう何がなんだか分からない。
最初の地震直後に妹に電話が奇跡的につながった時、妹は病院勤務なので患者さんの避難の最中でした。
たった20秒くらいの会話から、未だにまだ誰の声も聞けてない。
メールは2〜3回きました。
11日の夜中に母親から「全員生きてる、電池切れる、余震頻発」
それだけで、かなり安心出来ました。
その後12日に思うとから「電気、ガス、水道ストップ。近所の小学校に避難していて食料は乏しいけど暖はとれている」と。
家の状態とか、周りの状況まではわかりませんが、とりあえずほっとできました。
まだ、被害は少ない地域だったようです。
内陸ですし。
でも、全体の被害状況が想像を絶していて、未だに理解が追いつかない。
会社の同僚は実家が石巻ってことで、車で向うと言って帰って行きましたが、多分行けないよね。
もうなんでなんだろ。
天災だから仕方ない。
でもやるせない。
産まれた町の地形が変わるとか、友達の住んでる町が無くなるとか。
映画じゃないんだと。
しばらくは節電に励む、できることからやる。
家族の声が聞きたいなあ。
私は渋谷で勤務中でした。
その日はもちろんで社が全滅でしたので帰れず、会社に泊まっていいと言われましたが、知り合いが渋谷駅で立ち往生してるというので合流しました。
会社でも商品開発の人達が炊き出ししてくれて、それを持って知り合いのとこに向いました。
ありがたいことです。
知り合いが何も食べて無かったらとか、帰り歩くなら食べ物必要と思い、バッグにサンドイッチつめて会社でペットボトルもいただいて。(ウチまで渋谷から6時間半と検索したら出たので)
ありがたいことに居酒屋で食事もできましたし、暖もとれて15分仮眠もできました。
3時に閉店した居酒屋を後にし、休憩所に行こうとなりました。
渋谷駅前では銀行などがロビーを解放してましたが、交番であおがくの敷地を避難所にしているというので、そこに向かいました。
記念講堂を解放していて、クラッカーの大きな缶と水とアルミ防寒しシートをいただけました。
座ったり寝そべったりとたくさんの人が利用していました。
私たちも各自休憩したりトイレ行ったりとしてる間も学院の方や学生が一生懸命交通情報調べたり、携帯の充電器を貸し出ししたりと活動してくださいました。
そう言えばその学院にいく途中、私のつとめる会社の経営するカフェがあるんですが、電気がついてました。朝3時に。帰れなかったんだなと思っておつかれさまと心の中で呟きつつ素通りしました。
店長は良く知ってる方なのですが、もう寝てるかと。
そしてしばらく休んでいたらやっと朝7時くらいに最寄り駅まで行く電車が動いたとの情報が入り、知り合いと駅に向いました。
知り合いは東横線、私は別の電車で。
駅に向う途中、一つファストフード店が明いてるのが見えて、お客さんが殺到してました。
頑張ってるなあ、ありがたいよね…と思いつつ歩いていたら、なんとウチのカフェも開いてました。
笑顔で働いてる店長とアルバイトが見えました。
外にはそれを見守る統括マネージャー。
無理すんなよ!頑張らなくていいよ!と思いましたが、大きなチェーン店がまだ店を開けてない早朝、お客さんがたくさん入ってるのを見て、最後には頑張れ!ありがとう…とやはり心の中でつぶやきつつ。
他の店も納品物が届かなくて、14日から営業はどうなるか。
私は9時くらいになんとか電車を乗り継いで帰りました。
駅のなかの行きつけのファストフードの店員のおばちゃんにはげまされました。
実は今住んでるとこは地震発生時から12時間断水停電してて、大変だったらしい。
おばちゃんは実家が青森だとかで、とても心配してましたが、元気に笑顔で働いてました。
ホッとできました。
家に帰るといろいろ倒れたり、落ちたり。
でも帰れた安心感は大きかったです。
会社でもテレビは見てたんですが、やっと落ち着いて自宅でテレビを見ました。
もらったサンドイッチ食べつつ。
尋常じゃないのは分かってましたが、見てると涙が止まんなくなります。
私の実家は仙台市。
女川には同級生。
気仙沼には友達のお父さん。
多賀城には友達。
宮城野区、若林区にも多数の友達。
名取にももちろん知り合いやらがたくさん。
言葉にもならない。
町が無くなるって何?
家族は?
もう何がなんだか分からない。
最初の地震直後に妹に電話が奇跡的につながった時、妹は病院勤務なので患者さんの避難の最中でした。
たった20秒くらいの会話から、未だにまだ誰の声も聞けてない。
メールは2〜3回きました。
11日の夜中に母親から「全員生きてる、電池切れる、余震頻発」
それだけで、かなり安心出来ました。
その後12日に思うとから「電気、ガス、水道ストップ。近所の小学校に避難していて食料は乏しいけど暖はとれている」と。
家の状態とか、周りの状況まではわかりませんが、とりあえずほっとできました。
まだ、被害は少ない地域だったようです。
内陸ですし。
でも、全体の被害状況が想像を絶していて、未だに理解が追いつかない。
会社の同僚は実家が石巻ってことで、車で向うと言って帰って行きましたが、多分行けないよね。
もうなんでなんだろ。
天災だから仕方ない。
でもやるせない。
産まれた町の地形が変わるとか、友達の住んでる町が無くなるとか。
映画じゃないんだと。
しばらくは節電に励む、できることからやる。
家族の声が聞きたいなあ。
PR
この記事にコメントする